重要文化財指定へ議論
紀宝町大里「京城跡」
基本構想案受けて要望

photo[6] 紀宝町大里にある史跡「京城跡(みやこのじょうせき)」の将来像を考える検討会議が9日、大里多目的集会所で開かれた。地区住民や文化財調査委員、地権者ら16人が参加。岐阜県大垣市の株式会社イビソク(総合文化財コンサルタント)の岡本香菜さんから説明を受けながら、同町の重要文化財指定に向け議論した。
 主催者を代表して同町教育委員会教育課の田中伸佳係長が「基本構想案、具体的な方策を詰めていきたい」とあいさつ。
 続いて、京城跡の麓に昔から暮らす住民の寺尾邦義さんから「平成28年度から測量を始め、1年かかった。今日は地権者にも来ていただいている。来年度には重要文化財にしてほしい」と意欲を語った。寺尾さんは「昔は要害山と呼んでいた。京城跡と呼ばれ出したのは最近のこと、地権者や地元の人だけに守れと言われても無理がある」などとも説明した。
 岡本さんからドローンを活用した測量技術で、山の立体図面を作成したものを画像で解説。「どうやって整備し、守っていくのか。文化財を守るのは子どもたち、町が誇る史跡を知り、好きになってほしい」などと訴えた。
 参加者からは「京城跡の名称にロマンと魅力を感じる。なぜ京城と名付けられたのか歴史が分かればもっといいのに」との意見が出た。岡本さんが「名称の由来は分かっていない」と答えた。
 「基本構想に由来を記載することはできないのか」と要望。岡本さんは「記載すると、それが真実と伝わってしまう。記載の仕方を変えれば可能性はある」と回答した。
 「京城跡を発掘すれば何か出てくるかもしれない」、「みんなで調査していけばおもしろい」など活発な意見が交わされた。

■京城とは

 京城は現在の相野谷中学校の西部、大里と井内の境にあり東西約450メートルに縄張りがある。この地方では鬼ヶ城跡に次いで2番目の規模の城で、別名「要害山」と呼ばれる。
 天正16年(1588年)、豊臣秀吉の検地に反対した北山方面の住民が一揆を起こした。これに対して後の津城主である藤堂佐渡守(高虎)が北山、入鹿、尾呂志一帯を掃討した。その後、大和や北山での本街道だったこの地に新宮城主の堀内安房守(氏善)が築城したとされている。本丸の東南下に東泉寺跡があり、室町中期ごろ建てられたとみられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)4基と、ヒメ様と呼ばれる小さな地蔵がある。

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